残滓

自分なりにまじめに考えたこと/考えていたこと

障碍者不要論に思うこと

事件のことについて書くわけではなく、自分のこと、自分の考えを書いていくつもりだ。だから最初は、私が大学四年生だったころのことから書き始めたい。

教員免許取得のためには、介護等体験実習に行く必要がある。これは、デイサービス施設などの介護の現場と、特別支援学校(養護学校聾学校などの総称)で、実際に手伝いをさせてもらうものだ。
はっきり言って、どちらの現場でも実習生などただの足手まとい。お客様扱いか、誰にでもできる力仕事などを任されて終わりだ。意味なかったよね、という学生たちの疲れた囁きがつきまとっていた。
けれど、私にとってその実習は、今でもたまに思い出しては泣くくらい、心に残るものだった。それは、私のできることと、するべきことを考えなければならない時間だったから。

すでにデイサービスでの実習を終えていた私は、特支の実習でもお客さま扱いで、重い障碍を持つ生徒とは関わらないものだと思いこんでいた。けれど、私の班がつけてもらったクラスは、食事も排泄も、呼吸すらもままならないような生徒ばかりが集まった、たった5人のクラスだった。とても明るく、元気なクラスだというのが第一印象だ。どの先生も保護者も、教室では笑顔だった。実習生も、強要されたわけではなく、自然と笑顔になっていた。椅子も机もないその場所は、すべての事象を笑いや柔らかく飲み込みやすい何かに変える力があった。そのように、どの大人も努力をしていた。

それでも、私は何度も絶望した。
座ることができず、いつもマットに寝転がっていた子。時折動いて頭の位置が変わるのを、「膝枕が好きだから、ねだっているんだよ」と説明されていた。ただ、膝枕の形になっても、その子が笑うことも、目が合うこともなかった。
聴力も視力も弱い子だからたくさん触ってあげてと言われた子は、背中や肩をたくさんさすった。ひとりじゃないよ、一緒だよと伝えるためだと聞いていた。最終日の帰り際、背中をさすっていたとき、静かにその子の親が近寄ってきた。
「その、うーって声はね、触らないでって声なの」
慈しむような表情で、私と交代になるようにその子の背中をさすり始める。同じようにうなっていた彼は、母親が背をさするのを止めると、ぴたりと静かになった。彼のその「うー」は、初めて聞く声ではなかった。
エヴァが好きだという男の子。アスカ派だとお母さんが教えてくれた。そうか、アスカが好きか! 私は綾波派なんだよ、ごめんなー。そうか、アスカかわいいからなーと絡むと、小さく笑いながら「赤いから」とまた教えてくれた。目が、アスカや弐号機を追うのだと。文学部だった私は、文学なんて無意味だという言葉の意味を、この日初めて学んだ。
タコト気味に、「この子を見たとき、どう思ったか」と聞いてくる保護者もいた。微笑みながら、普通の子たちと変わらない、とても良い子だと、キレイゴトをまくし立てていたら、「私は、やっぱりショックだった」と、インフルエンザの後遺症で脳性マヒになったのだと教えてくれた。今でも、空虚な返事を後悔している。 
そのクラスではほとんどの子が、体のどこかにチューブを入れる。酸素のために鼻や喉に、食事の時間は胃瘻のために腹に、痰の吸引のために鼻から気管まで、透明な管を。「苦しくないのかなって、自分で鼻から管入れてみたことあるよ」と、笑い話のように教えてくれた保護者がいた。苦しかったですかとも聞けず、すごい、と曖昧に笑った。苦しくても、それを伝えられない子ばかりだった。酸素濃度の数字だけが、私にそれを教えてくれた。

意志の疎通が取れない、意思表示を読みとれない彼らと共にした時間、私は一つの労働力でしかなかった。彼らのためにできたことは、何一つない。車椅子を押し、的外れなことばかりで口を動かし、笑顔を顔に貼り付けて、周りの空気に合わせていただけ。実習中に泣くことは一度もなかったが、自分の無力さに何度も絶望した。ただのお客さんで、わからないこと、できないことだらけで、何一つ生徒のためになってあげられなかった。私はそこで、障碍者は不要だという考えには至らなかったが、自分が生徒にとってはいらない存在だと強く思った。人手は明らかに足りていない。ここで労働力として働くことはできるだろう。けれど、それが「私」である必然性はどこにもなかった。言葉や仕草から何かを読み取る国語が得意だった「私」には、彼らのしてほしいことは何もわからなかった。

だれもが、必要とされたいはずだ。時間や労力をかけて接した相手にそれを求めるのは、間違いではないと思う。私が容疑者の「障碍者はいらない」を解釈するなら、それは「必要として欲しかった」の裏返しだ。私はたった5日だったから、自分を責めるだけで済んだ。きっともっと長くいたら、自分を責めることに疲れきって、相手を責めるようになったと思うのだ。自己防衛のためなら、気持ちは簡単に動く。
長く働いて、彼らのことが理解できるようになったのならば、きっとあんな言葉はでなかった。容疑者には、できるようにならなかったのだろう。あの場所で絶望してしまった私には、容疑者を責める資格はない。何一つあの子たちのことを、わかってあげられなかったのだから。勝手な解釈でしかないが、彼にも人の気持ちがあったのだと思いたい。